2011年3月5日

インパール作戦

肉を切らして骨を断つ!!

昭和19年/1944年、3月~7月、南からは、第十五軍/軍司令官:牟田口廉也中将、インド国民軍/総兵力あわせて約10万人、第三十三師団/師団長柳田元三中将、作戦中に更迭され後に田中信男中将、東からは、第十五師団/師団長山内正文中将、作戦中に罷免され後に柴田卯一中将、同時に、第三十一師団/師団長佐藤幸徳中将、

がインパール北のコヒマに進出し、インパール平原を占拠している英軍を駆逐し、3週間でコヒマとインパールの奪還を目論んだ作戦。

日本軍の補給計画はなく、輸送用の家畜を食料にする計画であった。しかし、家畜もチンドウィン河渡河及びアラカン山脈越え中に雲散してしまう。

一時、宮崎支隊/宮崎繁三郎少将が、コヒマを占領したが、主力がインパールに進出しないまま、雨季が訪れ食料や弾薬も尽きてしまう。

5月以降、英印軍/司令官スコーンズ中将は、第十四軍/スリム中将に、増援を行い反撃を行う。6月1日第三十三師団が独断退却。その後、7月3日作戦中止命令が出て、作戦は失敗に終わる。戦死者3万。傷病兵4万、チンドウィン河の右岸に集結できた第十五軍の3個師団の残存兵力は作戦前の三分の一であった。そしてその退却路は白骨街道といわれた。

インパール作戦といえば、日本陸軍が、兵站を無視した無謀な戦いを挑んだ挙句、ボロ負けして、多くの日本の将兵が飢え死にした作戦というのが、一般に知られている意見のようだが、事実関係をよく調べてみると、無謀な戦いどころか、実は中盤戦まで日本側が優勢でした。さらには、あと一歩前進していれば、日本軍が勝利した可能性が高い。英国の勝利は、紙一重でした。

インパール作戦を語る上で、忘れてはならないのが、7万の日本の将兵が敗退して通った街道で、4万人が死んでいる。しかしながら、街道筋で、私たちの若き日の父祖たちは、自らの命を犠牲にしても、民家をただの一軒たりとも襲っていない。彼らにしてみたら、そんなことは「あたりまえ」なことにすぎないのだが。

怪我をし、腹をすかせ、マラリアに罹患して高熱を発している状態で、ちゃんと武器だけは携帯していた。街道筋の民家からは、食事時ともなれば、おいしそうなかまどの煙が立ちのぼる。民家に押し入り、銃をつきつけて、食い物を出せ!とやれば、おそらくは腹いっぱい飯も食えただろうし、満腹したら、その家にいる若い娘を強姦することもできたかもしれない。

けれども、日本兵は、只の一人も民家を襲うような破廉恥な真似はしなかった。世界史に照らせば、将に驚異だ。有り得ないことでなのだ。

彼等の行状をみて、戦闘相手の英国軍は、僅差でインパール戦に勝利したが、戦勝祝賀会のようなものは行っていない。また、25万の軍勢が対戦した史上最大の陸戦でありながら、英国ではインパールの勝利を記念日にさえもしていない。

英国は、東京裁判において、支配下のインドから、パール判事を送り込んでいる。パール判事が書いた判決は、周知の通りだが。

何故、被植民地の判事が東京裁判に選ばれたのか?何故、英国は、パール判事の書こうとする判決内容をあらかじめ知悉していながら、彼が判決を書くことを容認したのか?

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